浦和宿の歴史を感じる慈恵稲荷神社と浦和宿二・七市場跡をたずねる

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 寺社仏閣をめぐる

慈恵稲荷(じけいいなり)神社は浦和区常盤1丁目にある小さな神社。

浦和宿本陣跡近くにある慈恵稲荷神社

浦和区常盤 慈恵稲荷神社

慈恵稲荷神社は中山道の三番目の宿場町である浦和宿の本陣跡から近く、かつて二・七市場(にしちいちば)という市が開かれていた場所にあります。

社務所はなく、御朱印はいただけません。

慈恵稲荷神社 御由緒

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 御由緒

中山道の三番目の宿場であった浦和宿は、南北一〇町四二間(約一一ハ五・六メートル)の規模を持ち、北から上町・仲町・下町の三つに分かれていた。当社は、そのうちの上町の人々によって祀られていた神社で、当初は単に稲荷社と称していたが、後に慈恵の文字を冠し、慈恵稲荷神社と呼ばれるようになった。

慈恵の文字を冠するようになった時期は定かではないが、『明細帳』では「慈恵」の文字が後で加筆されていること、「慈恵稲荷社」の文字を刻んだ社号額や社号標が大正十四年に奉納されていることから考えると、同年の境内整備や翌年の本殿改築・拝殿新築といった事業を機に改称したものと思われる。

一方『風土記稿』浦和宿の項を見ると、「稲荷社三宇一は成就院持、二は村民持」とある。そのうちの「成就院持」の稲荷社が当社のことであり、「村民持」の稲荷社は常盤三丁目にある笹岡大稲荷・笹岡小稲荷のことと思われる。

当社の北に隣接する成就院は、玉蔵院の末寺に当たる真言宗の寺で、通称を「上寺」といい、明治四年に一旦廃寺になったが、平成二年に復興された。

また、当社の境内と成就院の大門の所には、各々大きな樅の木があり、中山道を通る人から見ると、それが一本にも二本にも見えたという。そこで、人々は「一本だ、いや二本だ」と言い争ったため、この樅の木は「争い樅の木」として知られていたが、明治九年九月の台風で倒れてしまった。

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 鳥居

鳥居から参道。

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 手水舎

手水舎。水は流れていません。

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 狛犬

狛犬には金網が。

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 本殿と拝殿

拝殿の奥には本殿があります(手前が本殿)。

浦和区常盤 慈恵稲荷神社 本殿奥

本殿奥にある末社。

浦和宿二・七市場跡

浦和宿二・七市場跡

中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所です。

浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていました。始まりは定かではありませんが、戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいます。市神と定杭を残す市場跡は、全国的にも例が少なく、近世の商業史を知る上で貴重なものです。

さいたま市公式サイト

浦和宿二・七市場跡

慈恵稲荷神社の石碑と浦和宿二・七市場跡の標柱。

浦和の歴史を感じることができる慈恵稲荷神社でした。

慈恵稲荷神社

住所さいたま市浦和区常盤1-5-19
御祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
御祭日例祭:二月初午
夏祭り:七月二十日前後の日曜日
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